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 平安時代には珍重されていた猫だが、鎌倉時代に入るとさっそく、怪猫の記述があらわれてくる。これは中国の猫鬼や金花猫の伝承が日本に移入され、日本流に味付けされたものだろうが、ヨーロッパの魔女狩り騒ぎに先んずること250年である。
  ●年老いた、黄色か黒色の雄猫で体が大きく尾の先が二股に割れているもの
  ●人語を話す。人に悪夢を見させる。後ろ足で立って踊る。火の玉をころがす。死人を踊らせる。
    死人を奪う。人を食う。人に化ける。人を猫に変える
  ●瞳の形が刻々と変わる。逆撫ですると毛が青光りする。尾が薄気味悪くうねる。後足だけで立ち、前足で戯れる。
    腐臭に誘われて死人の傍に寄る。待ち伏せという陰湿な方法で獲物を捕る
 これらは、神聖視される要因であると同時に、魔性と忌み嫌われる要素でもあり、それが神話と同時に怪奇伝を生むことは、洋の東西を問わず、日本もまた、その例外ではないのである。
本朝世紀 −藤原信西編の史書。平安末期(西暦1150年)。
 このごろ、近江の国(現在の滋賀県)甲賀郡と美濃の国(現在の岐阜県)の山中に奇獣が出る。夜になると村に群れ入って、子供を噛んだり、大人の手足を齧(かじ)るのだ。土地の人々は「」と呼んでいる。こういうことだから、人々はこの獣を殺し、皮を剥いだ者もいた。その間に種々のうわさが飛んだ。これは、もっとも奇怪な出来事であった。
たまきはる −筆者は藤原定家の姉、建御前(たけごぜん)承久元年(1219年)
 八条院様がお亡くなりになり、八条殿での人々の読経に加わって春華門院の御所に久しく参上しないでいたころのこと。まだ幼くていらっしゃる春華門院様をお抱き申し上げているうちに、突然、美しい唐猫におなりになったので、「これはどうしたこと」とびっくりし、夢から覚めたことがある。何となく胸騒ぎがして思い当たる限り方々の寺々にご息災の祈祷をさせ、また、お仕えしている人々にもお祈りのことを申し伝えたけれども、みなはそれほども思われず、大嘗会の御祓(おはらえ)に行幸される際、見物のため桟敷にのみ顔を出されただけだった。私のような尼の身であれこれ申し出るべきではないのだが、身の上を顧みぬいつもの癖で二位殿の御殿へ参上して思っていることをいろいろ申し上げたけれど、御祓見物の春華門院の御幸(みゆき)を限りなくうれしく思ったかいもなく、(春華門院は)とうとう病いにかかられておしまいになった。
明月記 −藤原定家の日記 治承四年(1180)から嘉禎元年(1235)
 曇リ、ときどき晴れ、のち雨降る。夜明けに宮中を退出し、帰宅したところ、一昨年前から飼っていた猫が野犬に噛み殺された。家人のいうには、夜が開けてから外に出したらしい。私は長年、猫を飼ったことはなかったが、妻がこの猫を飼ってからは、日夜愛育した。悲嘆の思いは、親子兄弟を亡くしたのと変わらない。この三年というもの、私たちは猫を手のひらに置いたり、衣のなかに入れてかわいがったものだ。ほかの猫はときどきやかましく鳴き叫ぶことがあるが、この猫はまったくそのようなことはなかった。わが家の塀が荒れ果て、隣家と自由に行き来できるありさまで、そのためにうろついていた野犬に襲われたものであろうか。
 終日曇り、西北の方に雨降るという。この辺は降らず。夕方、奈良から子供の使者がやってきて「このごろ、奈良では猫股という獣が出て、一晩に七、八人が食われ、多数の死者が出ました。獣は打ち殺しましたが、「目は猫のようで、体の大きさは犬くらいでした」という。そういえば、二条院の御時、京にこの鬼が来たとさまざまな人がいい、また猫股病という病が流行して、大勢の人がこの病に罹り悩まされたと私が少年のころに聞いたことがある。もし、この病が再び京に及んだら、きわめて大変なことになるだろう。
古今著聞集 −橘成季(たちばなのなりすえ)の著した説話集。建長7年(西暦1255年)。
 観教法印が嵯峨山庄に飼はれたる唐猫、変化の事観教法印が、嵯峨の山荘にどこからともなくやってきた美しい唐猫を捕らえ、飼っているうち、この猫がお手玉を上手にとって遊ぶので、秘蔵の守り刀を取り出してお手玉をとらせたところ、猫が刀をくわえて逃げ去った。人々が捕らえようとしたけれど、とうとう行方がわからなくなった。魔性のものが猫に姿を変えて守り刀を奪い、恐れることなく法印に危害を及ぼそうとしたのであろうか。恐ろしいことである。
<宰相中将の乳母が飼ひ猫の事>
 保延のころ、宰相の中将の乳母が猫を飼っていた。その猫は高さが一尺ほどあって、力が強く、すぐ綱を切ってしまうので、繋いでおくこともできず、放し飼いにしていた。 猫が十歳あまりになったとき、夜見ると背中に光があった。乳母は、つねにこの猫に向かって、こう言い聞かせた。 「お前が死ぬときは、私に姿を見せないでおくれ」 どうしてそういったのかはわからないが、猫は十七歳になった年、行方知れずになってしまった。
<或る貴所の飼ひ猫、鼠雀を取るも食はざる事>
 ある貴人の邸宅で「しろね」という猫を飼っておられた。その猫はネズミや雀をよく捕ったけれども、まったく食べようとしなかった。人の前にはくわえてくるのだが、そのまま放してやるのである。不思議な猫だ。
徒然草 −吉田兼好 元亨4年(1324年)から元弘元年(1331年)
「奥山に猫またというものがいて、人を食うそうだ」とある者がいったが、「山でなくとも、この辺りでも年を経た猫が猫またになり、人を取って食うことがあるぞ」という者がいて、それを聞いた何とか阿弥陀仏と称する連歌を生業とする法師で、行願寺の辺りに住んでいる者が「物騒なこと。一人歩きは用心しなければ」と思っていた。 ある日、某所で夜更けまで連歌をして、たった一人で帰途についたところ、小川のほとりでうわさに聞いた猫またがふっと足元に来て飛びつき、首筋に噛みつこうとした。 肝をつぶした法師は、防ごうとしても腰が抜け、小川へ転び落ちて、「助けてくれ。猫まただ、猫まただ!」と叫んだ。家々から人々が松明(たいまつ)を灯して飛び出してみると、大声の主は近所に住む顔見知りの僧である。「これはどうしたこと」と川から引き上げ、抱き起こしたところ、連歌の賞品として懐中にしていた扇や小箱などはすべて水に浸かってしまっており、危ないところを助かった法師は、ほうほうの態で家に入った。これは、法師の飼っていた犬が、暗かったけれど主の帰宅と知って喜んで飛びついたのだったという。